BRAND HISTORY

キャンプ4で暮らしていた頃を思い出しながら、「僕はとてもお金がなかったんだ」と語るファウンダーであるYoung Chu氏。
韓国生まれのYoungがクライミングを始めたのは、前衛的なスタイルを最低限の素朴なギアでクライミングを楽しんでいた1970年代のことだ。
初めてロッククライミングを見た日、韓国の花崗岩の丘でハイキングをしていた父親が「絶対にやってはいけないことだ」と言ったのを覚えているよ(笑)。
その後アメリカに渡ったYoung少年はロッククライミングの魅力に圧倒され「私の人生はそれから永遠に変わりました」と回想します。両親はアウトドアのスピリッツにこそ賛同していたが、特にクライミングに賛成でも反対でもなかった。
社会人として自立していない多感な若い時期に、そんな趣味のために金銭的な援助を受けられないだろうから、普通の初心者は挫折してしまうかもしれないけれど、驚くべきことに、16歳のYoung少年は身近にあるものを使ってその道具を作り始めた。
母親のミシンを使って最初のバックパックをデザインし、すぐにハーネスを、そしてヘルメットを作りました。練習を重ね、材料もデザインコンセプトもすべて自分で考えるようになった。友人たちが彼の道具に注目し、そのデザインを気に入ってくれたので、Youngはクライミング仲間と共有するために、さらに数種類を作りました。「やがて、クライミングに必要な道具はすべて自分で作るようになったのです」。
ゾディアックに最後の力を振り絞り、集中力を高めているときに、このアイデアは稲妻のように現れました。
どんなきっかけであれ、ヨセミテの挑戦を乗り切ったことが、より大規模なギアの製造という考えを生み出すきっかけとなったのです。
「毎年同じように、晩秋にロッククライミングの道具をすべて売り払って、冬のシーズンのためのアイスクライミングの道具を買わなければならなかったんだ。そして春になると、また全部売らなければならないのです(笑)」。
このような状況が続く中、当時、食料を買うためにアルミ缶を集めていた彼にとって、手頃な価格のギアを作るきっかけは、まさにコレだ!と。本来は高価なはずの金属が、その材料としてうってつけのものだったようです。「良いクライミングギアを作ることは、それほど難しいことではありません。しかし、手頃な価格で作ることは大きな挑戦でした。"


1987年、Youngは自らNelson Sports社を設立し、山岳スポーツやエクストリームスポーツ用のシューズのデザインを始めました。同社の仕事として、立ち上げ間もないFive Ten社に対してクライミングシューズの開発を、FOXとのプロジェクトではモータークロスバイク用のブーツを、Shiftにはレーシングブーツを、Deviceにはスノーボードシューズをデザインするようになっていきました。
10年間に渡りFive Tenのヘッドデザイナーを務め、現在でも取り入れられている同ブランドのベースとなるデザイン開発を行いました。"自分の足型を元に開発したラスト(靴のサイズ、フィット感、スタイルを作り出す木型)は、世界で最も売れ、最もコピーされているラストだというのが自慢のひとつです!。"
そしてクライミングシューズに要求される最も重要な要素の一つ「フリクションラバー」も探求していきました。通常の登山靴以上に、繊細な感覚と成果が求められるラバー(合成樹脂)と様々な性質の岩肌面との摩擦性能、気温、などとの関係を研鑽しました。


その後2002年、Youngは自身の新ブランド「マッドロック」をスタートさせました。
ロッククライミングへの情熱を注ぎ、革新的な技術を投入して手頃な価格のロッククライミングシューズをデザインし提供することが使命であると考えました。そして「クライミングシューズの進化には終わりがない」ことをすぐに悟りました。
2004年、YoungはフッカーレースとフッカーEZのデザインでISPOアウトドアアワードのフットウェア部門で初めて受賞しました。"このような賞はナイキやアディダスなどの大手シューズメーカーに与えられるものと思っていました。
マッドロックとNelson Sportsは総力を挙げて、クライミングシューズの性能向上に燃えていました。
「イヴォン・シュイナードに最も刺激を受けている」と、Youngは最も自身の印象的な冒険を想い出しながら語ります。雪が降り積もる厳冬期のアイガー北壁を登った記憶でした。
かつて "風来坊 "であり、今も "風来坊 "であると自分を評します。
Young氏は技術と経験を兼ね備え、現在もメインデザイナーとして"クレイジーなアイデア "で挑戦をし続けています。
